2013年6月12日水曜日

卑弥呼の里 箸墓古墳に行くNo.4

 檜原神社に到着しました、檜原神社は三輪大社の摂社で元伊勢とも言われます。
神社の真西の方向に二上山が見えますが、春分の日と秋分の日にこの鳥居の真ん中 二上山に夕日が沈みます、おそらく太陽信仰と密接に関係していると考えられます。
 神社前の茶店 ありましたね(^^)  ここで休憩とか、最高ですわ
 お品書きに「くずきり黒みつ」とか「ひんやり わらびもち」とか 絶妙ですね 
 参道につながるわき道 トトロが出てきそうですね。
 井寺池の水面
    写真6
 参道から檜原神社方向を撮影(写真6)、奥に檜原神社その後ろの山が三輪山です
この写真を良く見てください、参道右側の公園ですが緩やかな勾配がついた平地になってます。実際現地でみると後から人工的に盛り土したような印象を受けます。

「卑弥呼の里 箸墓古墳に行くNo.1」で述べたように ヒミコはその時代(3世紀前半)を境に大きく国の体制が変わるほどの影響力を持った強力なカリスマ性のある巫女(シャーマン)だったことが分かります、
魏志倭人伝によると
「ヒミコは鬼道を祭祀して人心を惑わし、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。卑弥呼は1000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、めぐらされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に就いて以来人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。」
とあります、 
連合国家といわれる纏向都市(初期ヤマト王権)はまつりごとを行うため各地方の国ぐにの首長が常時集まっていたと考えられますが、王位についてから人と会うことはない巫女が纏向遺跡の中心地(写真7)の箸墓古墳右側の平野部にわざわざ宮室を設けるでしょうか?
           
        写真7 井寺池から箸墓古墳と纏向遺跡(右側平野部)を望む

女王「卑弥呼」の宮室の在り処についての考察というか、私なりの仮説ですが 
おそらくヒミコは首長との直接の接触を避けて、三輪信仰の巫女としてこの三輪山のすぐたもとに広がる檜原神社のある台地のどこかに宮室を設けた可能性が高いと考えます。
この台地からは喧騒を避けつつ纏向遺跡がある平野を見下ろせ、すぐ背後は三輪山があり三輪信仰の巫女にとっては絶好の立地条件と思われます

現在の纏向遺跡発掘は平野部が中心でそれなりに遺構は発見されてます
新聞報道では「卑弥呼の宮室発見か?」との見出しもありますが、おそらくは
各地方の首長がつどい「卑弥呼参拝」と「会議」をするための建物かと思います
卑弥呼の宮室を発掘するなら既成概念をすてて 是非この台地も発掘していただけるようお願いしたいと思います。    おわり

 


              井寺池から三輪山を望む
             檜原神社参道 東向きに撮影
              箸墓古墳(手前右)と二上山
                  茅原大墓古墳
               お百姓さんとスーパーカブ
              最強の組み合わせですね、似合いすぎ(^^)
それにしてもいい表情しておられます
思わず写真撮りました

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